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科学 [僕の意見(人生観)]

社会問題と言うよりは人生観かなと言う話です。
あ、カテゴリーのことです。ときどき悩んだりしながらちゃんと毎回決めています。

今回、自分でも2回に分けて書いたくらい長いです(笑
「続きを読む」以降はまた違う機会に、というくらいのつもりで読んで下さい。

科学。

なんのことを指すのでしょう?
きちんと言葉で説明できるでしょうか?

浪人生の頃、英語の文章をいろいろと読んでいる中で、
scienseについて論じている文章も多くて、そういう文章で指すscienseとはなんなんだろう?
数学は含まれるのかな?
なんて思ったことがあります。

大きく言えば、人文科学(社会科学かな?)と自然科学に分かれると思います。
いわゆる、文系/理系もこれとほぼ同じ分類かなと感じます。

しかし、ともに「科学」。

一方で、日常で科学と言うと、自然科学を指している文脈が多い気がします。
そして、わざわざ科学という言葉を使う時は否定的な文脈が多い気がします。

気がするだけで実際は違うのかもしれませんが…

科学でなんでもわかると思ったら大間違い、とか、
科学でわからない素晴らしいことがたくさんあるんだよ、とか。

もう少し違う言葉で、科学(自然科学)を否定しているのもよく聞きます。

なんでも数字で判断すればいいってもんじゃない、とか、
データでしか物事を判断できないなんてつまらない、とか。

僕の好きなMr.Childrenの詞にもこんな言葉があります。

数字やデータで未来はつくれない
 〜「四次元 Four Dimensions」収録 「ヨーイドン」より



さて。
少し話を戻して。

人文科学と自然科学。
この2つの違いはなんでしょう?
ともに「科学」である所以は?

僕が思うに、どちらも出発点と目標は同じだと思うんです。
辿る道筋、つまり手法が違うだけ。

どちらもある命題を見つけて、それが正しいのか間違っているのか判断したい。

そのときに人文科学は、人の思想とか歴史とか、
(ほぼ)言葉でしか表せないものを扱っているために、
その論理を作り上げる際にも言葉に頼らざるを得ない。
だからその言葉が作り上げる論理が、
本当に飛躍していないか、どれだけ信頼性があるのか、
それを「言葉」だけを頼りに判断するわけです。
そしてその一般性、客観性を求める時に、対象が思想や文化であるがゆえ、
異文化との比較検証を試みる。

一方で自然科学は、数学を筆頭に、物理、化学、地学、生物学であっても、
数字で表して、数字で判断しているわけです。
こちらでは言語が数字であり、文が式であるのでしょう。
だから論理も数字を判断することで確かめられる。

やってることは同じでしょう?


さてここから話は少し飛躍して。
どちらかと言えばこちらが本題で、初めに書いたいくつかの言葉を否定したい、という話です。

最近では経済学は言わずもがな、心理学などの日常で触れる機会の多い人文科学においても数字を導入して論理を判断することが増えていますが、これはやはり数字で判断する方が客観性があり、判断しやすいからかと思います。
(余談ですが、そのせいかそこらへんの学問は国によっては自然科学に含まれたり、
日本でも心理学の人達は自分たちは自然科学の人間だ、と言い張っているらしいです。笑)

上であげたような、言葉にのみよる(古典的?な)人文科学的アプローチと、
そこに自然科学的な方法、つまり数字を持ち込んだアプローチを、
具体例、というかこの話を考えるきっかけになった話に照らし合わせてみたいと思います。

「頭のいい人には変な人が多い」

という命題があったとします。

どちらのアプローチをとるにしても、これでは命題として抽象的すぎるため、
「頭のいい人」とか「変な人」を具体的に判断しやすい指標を持って表現しなければなりません。

ここでは、「頭のいい人」を「高学歴な人」にしぼるとして、これでもまだなにをもって高学歴とするかは曖昧です。なので、さらに限定して、
「頭のいい人」→「高学歴な人」→「東大・京大生」
としてみましょう。

一方、「変な人」。これ意味が曖昧すぎますね(笑
では今回は、「社会性に乏しい」さらに限定して、「複数で行動することよりも一人で行動することを好む人」としましょう。以下、「一人が好きな人」。

人文科学的なアプローチをしてみましょう。(エセなのでひどいものかもしれませんが…)

例1 東大や京大に通うような人は勉強がよくできる。
   だから周りを見下す傾向にある。
   だから一人でいたがる。

例2 東大や京大に通うような人は子供の頃から家で勉強をしてきたに違いない。
   だから友達と外で遊ぶようなことはあまりなかっただろう。
   だから人付き合いが苦手で一人でいることを好むんだろう。

などなど、いろいろと思いつきますが、一見してわかる通り、すごく主観的じゃないですか?
まぁあらい三段論法にしたので当たり前なのですが、これがまさに人文科学が持つ難しさだと思います。

さて、自然科学的なアプローチというと誤解されそうですが、統計学(数学)を持ち込んで同じ命題を評価してみましょう。

「複数で行動するよりも一人で行動するのが好きか」という質問を、
無作為に選んだ東大・京大生100名ずつと、無作為に捕まえた街を歩く大学生200名にそれぞれしたとしましょう。

例えば、この結果が、

結果1 東大・京大生  Yes 150 / No 50
    街を歩く大学生 Yes 75 / No 125

結果2 東大・京大生  Yes 100 / No 100
    街を歩く大学生 Yes 75 / No 125

結果3 東大・京大生  Yes 80 / No 120
    街を歩く大学生 Yes 75 / No 125

のどれかだったとしましょう。
1だったら確かにそうなんだな、2だったらもう少し質問する人数を増やして調べてみようかな、3だったら関係ないんじゃないかな、って気がしませんか?
これも「気がする」程度ですが、数学ではこの点まで評価する方法があります。
まぁ具体的にはいいんですが、大体「気がする」結果と同じ評価が出ます。

いかがでしょうか?
人文科学を否定する気はまったくないのですが、自然科学、そして数字による評価が重要視されている意味がわかりませんか?
今回の例だと、自然科学的なアプローチでは2つのグループ(「東大・京大生」と「一人が好きな人」)の間にある因果がまったく見えてきません。
だからその因果を探るためには人文科学的なアプローチを行なわざるを得ないというか、
いろいろと可能性を考えてまたデータを集めて評価して…ということの繰り返しになります。
これは心理学や社会学などの人文科学でも、化学や生物学なんかの自然科学でも全く同じ。

哲学なんかはもう言葉以外にないって感じですし、
数学や物理学はかなりボトムアップ的なものなので、
データを集めて評価して、なんて統計的な処理は出て来ないのですが…

結局なにが言いたいかって、日常レベルでは統計による評価でしかわからないものだらけだってことです。
つまり、数字でわからないことは数字以外ではもっとわからない、と。

科学と呼ばれ、客観性を求める世界では数字に頼らざるを得ない。
その意味で、人文科学も自然科学もその違いは対象にしかないんです。

宗教だろうと、人の持つ未知の力であろうと、それが現象として顕在化するのならば科学の対象であり、必ず数字で評価できるはずです。
現象として顕在化しないものはただのオカルトでしょう?

なにを信じるも人の自由ですが、
僕だったら自分の信じているものの確かさをきちんと知っておきたいです。

最後に。
数字やデータだってもちろん完璧じゃないです。
捏造には勝てません。

これもリテラシー?


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まーちん

読んで思ったことは、

確かに数学、数字での判断結果は大いに説得性があるけれど

その結果を生み出す過程には

ナガサキの言う人文科学的な“科学”の思考を含まれているのではないか、

ということです。


つまり、数学は数学だけでは機能できないってことです。
最後の答えを出す部分で必要。
でもその前提部分がないと、数学的思考も結果も生み出せなくて
その前提部分は、人文科学の果たす役割で占められている、
ということです。

どうでしょう。
by まーちん (2007-10-14 21:09) 

ナガサキ

>まーちん

そう、その通りです。
だからトータルで「科学」だし。
僕は「科学」を肯定したくて、その中でも矢面に立つ「数字」を弁護する話を書きました。

実験系の自然科学や、統計を必要とする人文科学において、
最も大事なのは「なにをハカるか」であって、そこは数学と関係のない思考や勘に因っていると思う。

数学はその正当性を主張するための道具に過ぎなくて、
だから、数学・数字なんて意味を持たない、という主張は的外れだ、と言いたかったのです。

後半が人文科学を否定的に書いている感じなのは、
人文科学における評価方法に数字(統計)を取り入れなかったとしたら、という設定で考えているからかな…
自分で読み直してみて確かに言葉が悪いと言うか、表現が悪いなと思った…


>今回の例だと、自然科学的なアプローチでは2つのグループ(「東大・京大生」と「一人が好きな人」)の間にある因果がまったく見えてきません。
>だからその因果を探るためには人文科学的なアプローチを行なわざるを得ないというか、
いろいろと可能性を考えてまたデータを集めて評価して…ということの繰り返しになります。

>科学と呼ばれ、客観性を求める世界では数字に頼らざるを得ない。
>その意味で、人文科学も自然科学もその違いは対象にしかないんです。


このへんを汲んでもらえると助かる笑

いかがでしょう?
by ナガサキ (2007-10-15 22:13) 

あつみ

つっこみたい所は沢山あるんだけど…
心理学は社会科学です。笑
科学を大きく分けるなら、自然・社会・人文で分けて欲しかった!
社会科学と人文科学の壁は厚いよ。主観的にだけど。
でもそういう分け方したら心理学のひとが自然科学って言い張るのも分かると思うよ!

東大京大生の例で、
変な人とあるけど、性格検査で平均からかなり離れた人(正規分布の両端にいるような人)で定義できるのでは?とか
「街を歩く」大学生(外交的?)と比べたらダメでしょー引きこもりの大学生除外したらそりゃ差出るでしょーとか思ってしまう私は卒論に詰まっています。

紅葉始まったらまた京都行く予定です。苔寺?に行きます。
by あつみ (2007-10-16 02:36) 

ナガサキ

>あつみさん

うーん、三つに分けるのか…
僕の考え方では分け方の基準は対象でしかないから、
そう考えたときにそのほうがしっくり来るかな?
後半の、統計的な評価が必要になりがちなものがほぼ社会科学だしね。
でもそれを言い出すと、自然科学も実験科学と理論科学の間に壁があるのよ。僕からしたら笑
理論科学と応用科学で分ける人もいるだろうし。
だから、手法とあわせて考えると4つ、対象で大きく分けて2つ、でもそもそも出発点と目標という意味では1つ、ということでいかがでしょう。

性格検査とか、プレペリン検査とか、結局あれってその結果の評価自体が還元的に定義されてない?
だから僕は信用できないんだよね。
ひきこもりについては、学校に来ない東大・京大生を除外してる点で同様かと。さらにそれぞれについてひきこもりの率をきちんと定量すればもっと良いと思うけど。

京都おいでやす。
僕でよければまた誘って。ちゃんとします笑
by ナガサキ (2007-10-17 10:23) 

パキちゃん

「数字でわからないことは数字以外ではもっとわからない」
なるほど! 目から鱗・・・そんな感じを受けました。

お久しぶりです m(_ _)m
今年ももう終わりですね。
と言いましても、昨日も今日も明日も、毎日が特別な日なのですけどネ;^^
数字であらわすと、毎年同じ時間の積み重ねのはずなのに、感覚的・主観的には、今年は非常に速く過ぎた気がします。
(・・・なんて、今回のナガサキさんの記事にかこつけようとしましたが、私の知識では限界あり過ぎ~w)
では、来年もナガサキさんにとって、飛躍の年となりますように!
by パキちゃん (2007-12-31 09:40) 

ナガサキ

>パキちゃんさん

こんにちは、お久しぶりです。
返信が遅くなって申し訳ありません。
今年もよろしくおねがいいたします。


>「数字でわからないことは数字以外ではもっとわからない」

についてですが、僕自身もある方の本でそういった内容のことを読んで本当、目から鱗と言う感じで…

数字とかデータとか批判している人を見ると、
「じゃあどうやって説明するのさ?」
と聞きたくなります(笑
大抵ものすごい主観的な意見を述べている人が多いですが…


パキちゃんさんにとって今年が良い年となりますように。
なによりパキちゃんさんとご家族みなさまがご健康に過ごされることをお祈りしています。
そしてまたお時間のあるときに面白い話をblogでお聞かせ頂ければと思います。
こちらにもまたご訪問下さい。
by ナガサキ (2008-01-21 01:25) 

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